西遊記

三毒というものがある。

1.貪欲:際限の無い欲望に振り回されている状態。
2.瞋恚:ブライドが強く、ちょっとした事で怒り狂う。
3.愚痴:仏法に無知。

西遊記は、実在する玄奘三蔵を主人公にしたフィクションである。
西遊記では、三蔵法師には、悟空、八戒、悟浄の三人の仏弟子がいる。
(馬に化けている竜王の子を含むと四人)
この悟空、八戒、悟浄は三毒を象徴しているように見える。

1.貪欲→八戒
2.瞋恚→悟空
3.愚痴→悟浄

三蔵法師は、お人好しで騙されやすい、愚民の象徴のような人物。

私は西遊記は仏典であると見ているが、私流に解釈すると以下のようになる。

三蔵が天竺を求めるのは、人が悟りを求めるという行為。
だが、三蔵には三毒を抱えている。
それが三人の弟子に象徴されている。
ちなみに、「馬に化けている竜王の子」というのは、何の罪も無いが、因縁により不遇の目に遭っている者を象徴する。
ただひたすら、馬となり、地味に努力を重ねる。

玄奘は唯識仏教の研究者であるが、唯識では、三毒は悟りに転ずると言う。

つまり、貪欲はまさに「貪欲にがんばる」という事に通ずる。
瞋恚は、正義感に通ずる。
愚痴は、まじめに通ずる。

三毒も上手く生かせば、悟りになる。
そのためには、常に現状に疑問を持ち、葛藤する。

妖怪は、修行途上に現れる魔性を象徴する。
仏道修行の上では、必ず魔が再三、現れる。
自分の心の中に、あるいは敵対者として。

これらを粉砕しながら、三蔵一行は突き進む。

西遊記では、最終的に、彼らは皆、成仏するのである。

こう考えると、西遊記はやはり仏典だ。

「真言三昧」と言うだけあり、私の流儀は大乗~密教に位置するが、原始仏典を無視しては、仏教では無くなる。
大乗が建物の二階とすれば、原始仏教は一階に相当する。
一階無くして、二階無し。
一階がしっかりしていてこそ、二階は存在し得る。

というわけで、原始仏教の解説音声ファイルをUPしておいたので、ご参考に。
『現代に生かす原始仏教の思想』
http://amba.to/1zwyF8f

明日は我が身

自然災害、交通事故、火災。

突如、残念な亡くなり方をする人が増えている。

 
  一切皆遍動 猶如水上輪
  城壁砕落下 屋宇悉圯坼

  一切は皆、揺れ動き、水車の如く、ぐるぐる回る。
  城壁は落下し、家屋はことごとく壊れるだろう。

  (大集経月蔵分第十二法滅尽品第二十)


仏典には、津波の事も、夏冬の逆転現象の事も、地震の事も、竜巻の事まで記されている。
考えられる自然現象を、すべて並べ上げただけ、という考え方も出来るが、ある時期に「集中」して生じる事が重要なのだ。
それを警鐘と受け止められるかどうか?
不慮の死は、常に身近にある。
明日は我が身なのだ。
だが、警戒を怠る事が無ければ、少しでも助かる確率が高まる。

現実的な警戒も必要だろう。
だが、「神とつながる」というのも、大切な警戒の仕方だ。

「虫の知らせ」というものがある。
神とのつながりのある人は、虫の知らせが働きやすい。
預言書を並べて危機感をあおり、マインドコントロールしようという気は一切ない。
だが、あまりにも世の中の人々を見ていると、のんき過ぎる。
ハッピー過ぎる。
現実的警戒感すら足りていないような気がする。

個人ならばともかく、政治家に警戒感が足りないのは困る。

格差社会に手をつけようともせずに、消費税だけを増税させようとする。

貧困な国でも子供は生む。
日本の出産率が低いのは、格差問題が原因なのだ。
子供に惨めな思いをさせたくないから、生まないのだ。

また、何が何でも原発を再開させようとしている。
一日、原発を稼動させれば、一日、危険が先延ばしされるのだ。

なぜ原発を廃止し、世界の模範になろうとはしないのか?

 

仏教では、人心が仏法より遠ざかり、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒に支配された時に、世界は滅ぶと説く。

今はそんな時なのかも知れない。
だが、大集経月蔵分第十二法滅尽品第二十にはこうある。
「唯除浄居天」(ただ、浄居天を除く)と。

悟りに到達した者のたどり着く浄居天という世界だけは、滅ぶ事は無い。

浄居天はこの世にあるのか、あの世にあるのかはわからないが、仏とのつながりを保ち続けた者だけは、最後に救われるのだ。

それは決して、何かの特定の宗教への入信を意味するのではない。
神仏と向き合い、日々、貪・瞋・癡との戦いに生きる者だけが、救われるという意味である。

 
貪・・・欲望に支配される事。
瞋・・・下らぬプライドにより怒る事。
癡・・・真理に対し無知である事。

 

仏教の終末思想

日蓮の立正安国論には、金光明経、仁王経、大集経の終末思想が描かれている。
これらの終末思想について、日蓮系以外の宗派の人々が、あまり口にしないのは、単に「軽視」されて来た為に、「無知」である事が主な理由である。

日蓮はもともと天台の学僧であったが、広く浅く学ぶタイプの人であった為に、これらの経典にも、目を通していたわけである。

一方、平安期より語られていた「末法思想」とはいかなるものか?
それはまさに、この「大集経」に描かれている思想である。

「末法思想は、終末思想とは異なる」と主張する者があるが、末法思想とは、釈迦が亡くなると同時に、釈迦の法力が徐々に失われて行くという思想であり、無論、最終的には「終末」に向かうのである。

では、仏教は、何のためにこの思想を説いたのか?
それは、この思想の語り部は、大乗仏教徒である事に着眼すべきである。
釈迦の法力は徐々に失われて行く。
だから、大乗仏教を信仰するのである、という思想なのだ。

いわゆる、釈迦は木の実であり、大乗仏教は木、そのものである。
大乗仏教を行ずる者は、釈迦同様の力を得る、というのが大乗仏教の思想である。

釈迦滅後56億7千万年後の未来に弥勒菩薩が現れるという思想があるが、「56億7千万年」という数字にこだわるべきではない。
単に「永遠」を表現しているに過ぎない。
そして、その弥勒菩薩は、決して未来仏ではなく、常に存在する、というのが正しい解釈だろう。

もともと、弥勒菩薩の源流は、ペルシャのミトラ神である。
ミトラ神は、救世主として、世界的に信仰されており、特に、キリスト教は、ミトラ神を主神とするミトラ教の教義を、完全に踏襲している。

ミトラ神とは、救世主そのものであるから、クリスチャンにとっては、イエスであろうし、他の宗教では、また、他の存在がミトラ神となる。

大乗仏教における弥勒菩薩(ミトラ神)の本当の意味は、大乗仏教を行ずる人、すべてである。
大乗仏教を信じ、行ずる人のすべてが弥勒菩薩となる。
そして、終末からこの世を救うのは、大乗仏教の信仰者に他ならない。

大乗仏教とは、釈迦の教えにこだわらず、ヒンドゥー教、ペルシャ教、日本においては、日本神道の神までも拝む、多神教である。
難しい事を抜きに、ただ無心に神仏に手を合わせるのが大乗仏教の思想である。

さて、特に仁王経の終末思想は激しく、自然現象の破壊まで説く。
善神が去り、悪鬼がはびこるのがその理由とされる。

科学的に証明されたわけではないが、量子力学の世界では、思考は物質に影響を与える、という説がある。

人間の意識が、環境に変化をもらたす、という考え方は、吉蔵の『大乗玄論』に見られる。

「心外無別法。此明理内一切諸法。依正不二。以依正不二故。衆生有佛性。」

あらゆる物事は、精神の支配下に生ずる、という考え方である。

もし、そうであれば、人心の荒廃が自然の乱れを起してもおかしくはない。
現時点では、科学的説明がつかないながらも、一つの警鐘として俺は受け止めたいと思う。

しかしながら、今さら、何が出来るのか?という疑念も抑えがたい。
今さら、この日本の人々が、諸仏に手を合わせるとでも言うのか?

手遅れ感は否めないが、森の火事を消すために、小鳥が何度も何度も、羽根を池に浸しては、その水滴を火の上に落とす、という説話もある。(雑宝蔵経)

黙って、社会が崩壊するのを眺めてもいられまい。

世界の全員を助ける事は不可能でも、一人でも多くが助かるように努力する。
それが大乗仏教の精神である。

俺は親鸞が嫌い

親鸞は自身を半僧半俗としている。
これは事実としてそうだった。
師である法然は、排他的な浄土法門を説いたがゆえに、幕府によって罪人とされた。
この時、僧籍は失われており、弟子の親鸞もまた、同様だった。

だから、身分としては僧ではないが、僧のような仕事をするから、「半僧半俗」を称したわけだ。
親鸞の法門は「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の言葉に尽きる。
「善人が往生するのは当然である。仏は、出来の悪い者ほど哀れみ、お救い下さるのだから、善人が往生する以上、悪人が往生しない事など、決してない」という意味である。

この言葉に見えるように、親鸞には「悪」への寛容性がある。
そもそも、この「悪」への寛容性は、師、法然の説いた浄土宗の法門の理念である。
浄土宗の理念とは、「この世は環境が悪すぎて、従来の宗派(天台や華厳等)の説く修業をおさめる事は出来ない。ならば、ただ阿弥陀如来に救いを求め、来世、極楽浄土に生まれ変わり、極楽浄土で修業をしよう」というものである。
要するに、仏道修業の放棄である。
法然の存在した時代の日本仏教は、真言宗、天台宗、華厳宗、法相宗がメインだが、どれも教義が難しく、修業は複雑で、庶民の手に届くものではなかった。
当時は「出家しないと成仏は出来ない」という常識もあったので、庶民の手に届かせる必要すらなかった。

それに対し、違和感を抱いたのが法然。
法然は仏教を庶民に近づけようとした。
そこで、中国で広まっていた、易行道(修業の簡単な仏道)である浄土教を日本でも布教したのである。

浄土教は、「煩悩は自己解決できない」という考え方である。
従来の宗教は、煩悩を自己解決しようと、四苦八苦する。
だが、浄土教はそれを放棄する。

密教もまた、煩悩の自己解決を放棄し、諸仏に対し、煩悩を悟りへと転じてくださるように祈願する。
だが、浄土教は、こうした祈願すら行わない。
煩悩そのまんま。
垂れ流しっぱなし。
戒律すらない。

法然を宗祖とする浄土宗では、それじゃ、さすがにまずいという事で、後に戒律を説くようになったが、浄土真宗は、現在も戒律は無い。
「人だから煩悩があるのは仕方ない」という考え方だ。

この考え方は、かなり現実的である。
密教は「煩悩即菩提」を説くが、実際、多くの密教は煩悩を悟りに転ずるどころか、煩悩を肥大化させて来た。
そういうものを目の当たりにして来た、法然やその弟子が、密教を否定するのはやむを得ない。

俺は、多くの密教僧が理想とは裏腹に堕落して行ったのは、法門の問題ではなく、真剣さの欠如であると思う。
実際、マジメに修業を遂げる者もあるわけだから。
また、組織は必ず腐敗するものだ。

煩悩即菩提を説く密教の名刹が、四度加行(密教の坊さんが最初にやらないとダメな修業)という過酷な行が終わった後で、お祝いと称して風俗に行く。
今だって、そんなものである。

こういうのは、密教が有効とか無効という問題ではなく、真剣さの問題と思うが、いかがか?
だが、いかに真剣に取り組んだとしても、人間である以上、煩悩が消滅するわけでは無い事は確かである。
だから、法然は浄土宗を広めた。
親鸞もまた従った。

煩悩や、煩悩によってもたらす犯罪に対する寛容性というのは、魅力があると思う。
だから、死刑執行の時、浄土真宗の坊さんが立会い、死刑執行の部屋には、浄土真宗の阿弥陀如来が安置してある。

「まじめに生きたいのに、生きられなかった」という人に対し、浄土真宗の説く教えは甘美である。
俺もまた、浄土真宗の思想には、一種、仏教が到達したものを感ずる。
だが、どうしても、受け入れられない所がある。
偏狭な教理は、まあいい。
宗教はそんなものだ。
だが、俺が徹底的に嫌なのは、親鸞が妻帯した事だ。
親鸞はある日、お堂にこもった。
お堂の中で、観世音菩薩に対し、「私は煩悩を捨てる事が出来ません。どうしたら良いでしょうか?」と問いかけ続けたらしい。
すると、夜中に夢の中に観世音菩薩が現れた。
「そんなに女性が恋しいのならば、私が女人となり、あなたの妻となりましょう」と。
この観世音菩薩の夢の中での承諾を持って、親鸞は妻帯し、子を儲けた。

フザケンナ!

だいたい、夢の中の話じゃねーか。
作り話の可能性もある。
要するに、単に結婚したかっただけじゃねーか。

「俺は結婚したかったから、結婚したんだが、で、それが何?」

という開き直りをしたほうが、まだ好感を持てる。
なのに、こういうホラ話を吹聴し、自分が「半僧半俗」と言いつつ、坊さんの仕事をし、お布施で飯を食い、しかも、そのお布施で妻子を養いしてる親鸞は、詐欺にしか思えない。

凡夫に寛容である浄土の教えを説きつつも、自分は厳しく僧侶として自戒し続けた法然のほうが、何倍も人として尊敬できる。
親鸞って、プロテスタントの牧師に似てない?
プロテスタントは、ローマカトリックに敵対したルターが起したキリスト教の宗派だが、プロテスタントでは司祭を置かない。
司祭ってのは、仏教で言う「僧侶」の事。
こういう権威をプロテスタントは認めない。
なぜならば、神のもとにはみな、平等だから。
神父(=司祭)さんを通してしか、救われないというカトリックに対し、ルターは反発した。

以降、プロテスタント教会には神父はいない。
そのかわり、信者の世話人としての「牧師」を置くようになる。
だが、結局、牧師もいつの間にか聖職者化し、神父同様に人の頭の上から説教するようになる。

そして、牧師もまた、家庭を持ち、子どもを塾に行かせ、予備校に行かせ、大学に行かせる。
休日には自家用車で家族とドライブ。
ふざけんな、バカ。

これじゃあ、生涯、独身を貫くカトリックの神父のほうが、マシに思える。奴らはたま~に、淫行事件とか起すけどな。
僧侶が家庭を持たないのは、家族がいたら、家族が気にかかる。
妻の面倒を見ないとならない。
子どもの面倒を見ないとならない。
それは精神的な面のみならず、財政においても。
つまり、妻子を食わせねばならない。

自分一人の生活ならば、信者にめんどうを見てもらっても、たいした事はない。
だが、妻子がいたら、信者の負担は、二倍にも三倍にもなる。

それに、妻子があれば、孤独な人の気持ちが理解できなくなる。
家で妻子が待っている人が、孤独な人の相談に乗る。
これはどうしても偽善になってしまう。

俺の尊敬できる僧侶の一人が、江戸時代の良寛さん。
この人は、寺院を持たず、あばら屋で、生涯、過ごした。
僧侶の見本である。

 
というわけで、浄土真宗。
浄土真宗って、いま、数多くの派に分かれているが、みな、トップは親鸞の血統である。
浄土真宗の宗祖は、代々、親鸞系。
世襲なのだ。

これって何?
徳川家?

血を絶えさせちゃならんから、当然、やるわね。
やる事、やるわね。
ガンガン、やるわね。

もはや、「煩悩抑えきれずして、やむにやまれず」って感じじゃなくて、積極的に煩悩、フル回転。

こうなるともう、絶対、信頼できない。
俺は、別に坊さん、妻帯してもいいと思う。
それを「恥」と思ってくだされば。
「自分は僧侶である」と名乗らなければ。
寺院の管理人と、葬儀屋に徹していただければ。

でも、信者から多くのお布施を要求し、それで家族を養い、ぜいたくな暮らしをし、大きな顔をしている坊主には、嫌悪感しか沸かぬ。

俺とは法門が異なるが、スリランカ、タイ、ビルマの坊さんのほうが、まともだ。
俺が嫌なのは、親鸞の小細工したような言い訳。
「半僧反俗」とか言わないで、「私は単に俗人。在家です。」と言って、維摩居士のように生きれば良かったのだ。
堂々と、自分の稼ぎで飯を食い、妻子を養い、その上で、在家の在家のための在家による教えを説けば良かったのだ。

欲望というのは抑え難い。
だが、だからと言って、欲望を肯定したり、理屈をこねて正当化しようとするんじゃなくて、欲望と戦いつつ、時に欲望に負けても、それを正当化しないで、恥じていればいい。
それが僧侶のあり方じゃないのか?

釈迦の極端に禁欲的で、しかもそれを弟子にまで要求するあり方は、不可解としか言い様が無いが、それでも、「欲望との戦い」こそが、宗教の眼目である事は間違いない。

なぜならば、世の中の、あらゆる犯罪は「欲望」が暴走する事によって、引き起こされるからだ。

だからこそ、欲望をコントロールするために、人は出家する。
それは仏教に限らず、カトリックでも同じだ。

そして、そういう出家者の、自身の欲望と戦う生き様を見て、在家信者も、身を正すのである。
日本が道徳的の衰退した理由の一つには、こうした「模範」となる人物がいなくなった事もあるだろう。

良寛さんのような人がもし、身近かにいたら、もし、親がヒドイ人物でも、心が捻じ曲がる事は無いだろう。

粗末なあばら屋で、一人、祈りを捧げる出家者がもし近所にいて、そういう人との交流があったら、人は生きる道を踏み外す事はない。

こうした人が一人もいなくなる。
これが「末法」という事なのだろう。

 

ちなみに、浄土真宗の方々は北海道開拓に大いに貢献した。
道内を走る国道は、門徒の手によるところが大きい。
是々非々で、この点については、大いに感謝したい。
また、純粋に真宗を信仰する人を、バカにするつもりは毛頭ない。
俺の親族にも、真宗の剛信者が多く、みな、善良で長生きだ。

ただ、真宗のみならず、日本の仏教界、宗教界、全体として大いに反省すべきものがあると思い、この記事を書いた。

心打たれたおみくじの言葉

神社のおみくじにあった言葉です。

 
なにごとにも心動かず常業を守ってゆくときは、おもいがけぬ幸いをうることあり。いろいろと迷うときは人にたぶらかされて身のおき所にも苦しみます。

 
《神の教》

なやむ思いを祈りにかえて、すがれひとすじ神様に

病(やまい)にかかって、病を苦にすれば、病はますます悪くなる。医療を施した上は、其(その)平癒を神様に御願いするがよい。病気ばかりではない。人力を尽くした上は何事も思いなやまず、神様に御祈りする。なやむ苦悩を祈願にかえる、なやむ隙(ひま)に御祈りする。

欲望のコントロール

欲望をどう制御するか?
仏教は、この問題にひたすら取り組んで来た。

小乗仏教は、「欲望は努力でコントロールできる」という信念の元、修業に励んだ。
だが、釈迦在世の頃から、それが上手く行かなかった事は、「律蔵」という経典より、察する事が出来る。
とにかく、釈迦の弟子の中には、欲望、特に性欲の制御が出来ずに、しくじった者が多い。

釈迦は、こうした者達を、叱責したり、あるいは教団を追放したそうだが、そもそも、「欲望は努力でコントロールできる」という考え方に無理があったのではないか?

釈迦は中道論者と言われているが、色欲については中道ではない。
完全なる禁欲主義者である。
そして、あまり知られていないが、彼は出家主義者。
出家しない限り、人は救われないとする。

だが、釈迦のような出家者は、在家者の援助があって、生活できる。
ならば、「出家主義」そのものに矛盾がある。
(カトリックも釈迦教団に似た出家主義である)

結局、本当に救われるのは出家者だけで、在家は、出家者を供養する事で、功徳のおこぼれが貰える、という考え方なのだ。
釈迦は、最初は教団に女性を入れない方針だった。
だが、弟子の強い要望で、女性もしぶしぶ、入れるようになった。
そこから、さまざまな惨劇が始まったようだ。

だが、女性を入れたのが失敗とは言えない。
だいたい、むさい、男だけの集団、というのに無理がある。
精神的にがまん出来ないというのが普通だ。
がまんできる釈迦というのは、ホモか、ひそかに女を囲っていたか、どっちかだと思う。

高野山は女人禁制と言われた山なのに、今や、坊さんたちが、結婚し、高野山の中で生活している。
これを「仕方無い」というか、「堕落」というかは、人それぞれの解釈だろう。
俺には、両方の要素があると思う。
ちなみに、高野山は小乗ではなく、「密教」である。
次に大乗仏教。
これは、「欲望は努力ではコントロールできない」という立場だ。
じゃあ、どうすればいいのか?
コントロール不要なのか?
そうではない。
コントロールは必要だが、努力ではそれは実現できない。

欲望のコントロールは、諸仏菩薩の霊的な導きによって、実現できる、という思想である。
だから、もともと異宗教であった、ヒンドゥー教やゾロアスター教などの神を、仏教に取り込み、拝んだ。
(「内外相対」という教判があるが、この時点で意味をなさない)

諸仏菩薩を一生懸命に拝めば、欲望はコントロールできるのか?
こればかりは、やってみなければわからない。
ただ、やらない人よりは、やっている人のほうが、コントロールできているように、俺は思う。
大乗を一歩、進めると密教になる。

密教は、神仏と一体化する事で奇跡を起こす、というものだが、そもそも、この考え方は大乗仏教の中にすでにあって、それを「雑密」と言われている。

では、なぜ、改めて密教が誕生したのかと言えば、「神仏と一体化する事で奇跡を起こす」という事を「教理化」したのである。

俺は、この「教理化」が今ひとつ、好きになれない。
どうでもいい理屈を並べて、何になるというのだ。

ヒンドゥー教にも、色々理屈がある。
例えば、ヨーガに関するものでも、書店に行けば、分厚い本をいくらでも発見できるだろう。
そこには、チャクラがどうのこうのと、理屈が並べ立ててある。

かつて、こういう屁理屈で、人類は救われた試しはない。

人は実践、実行のみによって救われる。

密教全般、否定するわけではないが、密教経典を読んでも、まったく俺は関心を持てない。
法華経のように、根拠なく「信じれば救われます」と書かれているほうが、スッキリとする。
密教における欲望のコントロール方法は、自力と他力の合わさったものである。
「小乗+大乗=密教」というのが、これに関しては言える。

だが、難しい事を考えているうちに、彼らは、どうでも良くなってしまったのか、ついに、「欲望のコントロール」を放棄する。

そして、「欲望こそ悟り」として、快楽主義に突っ走る。
これが左道密教である。

後世修正されて行くが、この左道密教こそ、インドから仏教を衰滅させた要因である。

日本天台宗もまた、室町時代あたりで、左道密教的になり、真盛上人という人が改革に乗り出したりしている。
織田信長が比叡山を焼き討ちしたのは、左道密教化した天台宗を邪教と見た、というのも一つの理由である。
それで、結論だ。

やはり、密教がウダウダ理屈をこね回すあたりで、おかしくなったのだ。

大乗仏教のように、素直に神仏に救いを求めているほうが、欲望の制御には効果はあったろう。

手を静かに合わせて、神仏に願う。
ここに大乗の説く救いがある。

ヴィッパッサナー瞑想という、小乗瞑想を説く人々が日本にもいるが、理屈をこね回すだけで、効果があるとは思えない。
「お前は、きっちり実践した経験が無いから、わからないのだ」、と言われるかも知れないが、あのクドクドした理屈を聞くだけで、救いを感じられない。

小乗仏教の聖地、東南アジアの人々が、欲望のコントロールに成功しているとも思えない。

じゃあ、大乗仏教の聖地、日本はどうなの?
すまぬ。
日本人は、あまり大乗仏教信じて無いんだ。
どっちかと言えば、聖地というより、性地というのが的確だ。
上記、色々述べた事について、異論があり、「こうすれば欲望はコントロールできる」という自信のある方は、ぜひとも、それを世に広め、この国、世界を導いていただきたいと思う。

略式勤行

俺流の略式勤行の音声ファイル、及びPDFファイルをアップしました。
10分足らずの内容ですので、毎日、負担なく実践できると思います。

ダウンロード↓
http://firestorage.jp/download/cc36ad0f7d62f1dbf43113d5c1e3826e740d0b89

空とは何か?

「空」とは、大乗仏教に至って、登場した概念である。
釈迦は、無常、無我という真理を見出した。
なぜ、見出し得たのか?
それは、あるがままに、この世を観察したからである。
(実際は、無常も無我も、釈迦以前から存在しているのだが)

あるがままに世の中を観察すると、真理が見えて来る。
あるがままに観る。
これを「空」という。

空には、自分の邪推、というものが入らない。
不自然な思考をしない。
あくまでも、自然に、論理的に結論が出て来る。

悟りとは、常に「空」でいられる事だ。
仏陀とは、常に「空」なのだ。
我々は、時々しか、「空」になれない。
大乗仏教初期に、一連の般若経典が成立した。
これらの経典の中で、「空」が主張されている。
どうしたら「空」になれるか?

この大乗仏教の思想の中における、諸仏菩薩諸天神の最大の役割は、人々を「空」へと導く事である。
現世利益は、彼らの主たる目的ではない。
それどころか、人を「空」という悟りの境地へと導くために、あえて難題を容易する事さえあろう。
これは人の願う、現世利益とはむしろ逆である。

悠々自適に暮らしていれば、人は悩まない。
悩まないと、魂は成長しないのだ。
これは、人を悟りへと導こうとする神仏から見ても、好ましい事とは言えない。

もし、今、苦しい状態に自分が置かれているならば、それは魂を向上させるための、良い機会なのかも知れない。
そう理解した時に、意外に、今の状況は好転して行くのではないか?

例えば、病気で苦しんでいる人が、「病気というのはこんなに苦しいものかと、気づかせていただいた」と理解すれば、もう、病気という課題は修了する。
(実際は、病気はそんなに単純では無いが、一例としてあげた)

人が生きて行く上で、最も重要なのは知恵だ。

この世で、本当に悲しい人は、知能的障害を負った人である。
思考が正常に機能しない事ほど、どうしようも無いものはない。

もし、自分に知能的な問題があれば、それほど、神仏の導きにすがっていただきたい。

一往、健常者である我々も、思考が正常ではない時が多い。
政治家や公務員など、狂っていると感じないか?

この世の争いに打ち勝つには、思考が武器である。
いかに論理的に考えるか?
現代の武器は、剣や銃ではなく、優れた論理に基づく言動、行動である。
相手以上に、するどい論理性を発揮し、対策を練る事だ。
つまり、「空」を習得するのだ。

「空」、つまり、「あるがまま」の思想とは、「極に走らない」という事である。
極端思考をしない。
中道を探る。

丸でなく、四角でなく、黒でもなく、白でもなく・・・

このような思考を仏教では採用する。
仏典によく「非A非B」(AにあらずBにあらず)とあるのは、中道というものだ。
これを「中観思想」とも言う。
とは言え、わざわざ竜樹の中論を読む必要はない。
読んでも、意味、わかんない。
こういう思考パターンは、日々、意識する事により習得できる。

とにかく、極端な考え方を避ける事。
そして、無理な発想をしない事。

般若心経を読誦し、神仏の力を借りながら、日々、論理的な思考に磨きをかけて行こう。

浄土思想はなぜ生まれたか?

日蓮は「念仏無間地獄」と言って、浄土思想を主張した。
(と言いつつ、晩年、日蓮は「寂光土思想」という、同様のものを主張したのであるが)
日蓮の浄土思想には、教理的な矛盾があるものの、それがすべて的外れなわけではない。

この世(娑婆世界)は苦悩の世界と割り切り、死後の極楽往生を願うという思想は、自殺につながりやすい。
「南無阿弥陀仏」と称えながら川に身を投げる、などという行為が生じやすかった。
ゆえに、地獄を生みだす要因を、浄土思想の中にはらんでいるのである。
しかしながら、冷静に考えてみるならば、浄土思想が生まれて当然の理由もある。
仏教では、輪廻を主張する。
生まれ変わり、死に変わりを何度も繰り返すうちに、人は数々のカルマ(業)を身につけて行く。
このカルマを消滅する(解脱する)事によって、再び輪廻しなくても良い存在となる。
これを成仏、という。

だが、何百回、何千回と、数え切れぬ間に、人(動物に生まれた時代もあったろう)は無数の罪をおかして来た。
それを、この世で、いくばくかの仏道修行を積んだとして、果たして消せるものだろうか?
無数の、重い、重い罪を積んで来た我々は、やはり、今後も何度も何度も生まれ変わりながら、長い、長い修業を積まねば、成仏する事など不可能ではないか?というのが自然の発想だろう。

例えば、殺人行為をした人間が、被害者家族の家の前を、一年間、掃除したところで、その罪は許されまい。
それこそ、一生、掃除を続けても、許されるかどうか、という罪の重さなのだ。

それなのに、六波羅蜜の修業を、今世で数十年、続ければ成仏できる、なんて、虫が良すぎるのではないか?
ましてや、現世利益を願うなど、罪人がぜいたくな暮らしを願うようなものではないか?
我々は、過去世からの罪業が深く、どれほどの不幸を味わっても当然の身の上である。
だから、不幸を甘んじて受け容れ、せめて、死後、浄土に生まれ変わり、やすらぎを得るというのが、せいぜい我々の願える限界ではないか?
というのが浄土思想なのである。

密教では即身成仏を説く。
これは、特定の行法を行えば、この世のうちに成仏する、という発想だ。
日蓮の唱題行もまた、密教の即身成仏の行という位置づけが出来る。
密教的思考から行けば、浄土思想は、あまりにも悲しすぎる。
しかし、南無妙法蓮華経と、朝晩、唱えてさえいれば、本当に、過去永遠の罪を許されるのだろうか?
そんなに、我々のカルマは軽いのか?

ガンジーは、ヒンドゥー過激派のテロによって死んだが、あのような悲劇的な死に方で、いっきにカルマを清算すれば、即身成仏もあるかも知れないが、のんきに日々をくらし、それでいて、即身成仏など、無茶なのかも知れない。
カルマ論を前提とする以上、このように考えたほうが、合理的じゃなかろうか?

浄土思想も、そんなところから生じたのだな、たぶん。
浄土信仰者、つまり、浄土宗とか浄土真宗の信者であるが、彼らの思想は、現世利益をあまり願わない。
それは、上記に述べたように、罪業の深い人間が現世利益を願うなど、おこがましいという発想なのだ。
どんな悲惨な死に方をしても、文句を言えぬほど、我々は、過去世において、罪深い事をして来たから、という発想だ。

だから、まったく現世利益を否定するわけではないが、比較的浄土系の人は、現世利益思考を好まない。
で、何を目的とするかと言えば、無論、死後の往生が最終目標。
そして、今世においては、現世利益よりも、精神的幸福を望む。

幸福には、物質的幸福と、精神的幸福があるが、浄土系の人は、精神的幸福を優先する。
どのような環境にあっても、精神的幸福を求めるのは可能、という発想である。
では、具体的に、どういう思想を彼らは持っているかと言えば、「無常観」だろうと思う。

日本文学の中にも、無常観が潜んでおり、これは浄土思想と無縁ではない。
物事は必ず、変化する。
形あるものは、いつか滅びる。
すべてのものは、いつか自分のもとを離れる。
そう考えていれば、苦悩は少なくて済む。
反対に、今、与えられているものに対し、感謝する事が出来る。
死後の往生にこだわれば、日蓮の危惧したように、自殺に結びつくが、浄土思想の、この世への割り切り方は、かなり生き方の参考になるのではないかと思われる。
昨年、東日本大震災があり、多くの全員が一瞬で亡くなった。
このような情景を見れば、「神も仏もあるものか」という疑念が起こるのが普通である。
だが、浄土思想に基づいて考えるならば、その疑念自体が無茶であると感じる。

医者でも、救える命と救えぬ命がある。
神仏にも、救える場合と、救えぬ場合がある。
それは、その人の抱えている「運命」があるし、また、そうでなくとも、地殻変動という強烈な自然現象をどうにか出来るほど、神仏には力は無いのだ。

だが、なんとか助けてあげたいと、神仏は常に念じているのである。
だから、例え、願ったような状況にならなくても、助けてくれようとした神仏には、感謝をすべきなのだ。
それは、命を救えなくても、救うべく努力してくれた医者に、頭を下げるように。

法華経という経典

法華経二十八品を通読すると、「ワケがわからん」という感想を持つのが普通であろう。
結局、色んなものを寄せ集めた経典であるから、それが普通なのである。
法華経の中では寿量品が最も有名であるが、この寿量品は久遠仏の存在を説いている。
歴史上の釈迦を超えた、永遠に法を説き続ける仏である。

例えば、人間には太陽信仰というものがある。
「お天道さま、ありがたや」という、素朴な宗教である。
だが、宇宙において、太陽とは数多くの恒星の一つに過ぎない。

では、数多くの恒星を生み出したものは何か?
それは宇宙に潜む、エネルギーである。

寿量品に置き換えると、太陽に相当するのが歴上の釈迦であり、宇宙に潜むエネルギーに相当するのが、久遠仏である。
法華経には、寿量品のほかにも、脱宗派主義を主張する方便品、観音信仰を説く観世音菩薩普門品(通称、観音経)等、合計して二十八の経典が集合して形成されている。

この二十八の経典はすべて、別個に成立したものと捉えるのが自然であり、無理に、整合性を求めようとすると混乱するだろう。
法華経には、一往、体裁として物語的整合性を作ろうという努力はうかがえるが、完成しているわけではない。
多民族の集合体である、アメリカ合衆国のような経典なのだ。
では、なぜ法華経は尊重されて来たか?
それは、法華経こそが、バラモン教と仏教を完全に結びつけたものだったからだ。

久遠仏とは、まさに、バラモン教の根本神である「ブラフマン」そのものであり、観世音菩薩は、おそらくはバラモン教の女神「サラスヴァティー」のコピーであり、陀羅尼品においては、バラモン聖典「バガヴァッド・ギーター」に登場する神が勢ぞろいする。

法華経以前の仏教は、バラモン教とは一線を隔す部分があった。
ところが、それでは大衆の関心を引き寄せる事が不可能である。
そのため、仏教とバラモン教を結合する必要があった。
その要請から生まれたのが法華経だったのだ。
法華経の中には、「無常」や「無我」という仏教の根本思想は、もはや説かれていない。
法華経は、仏教的法門は皆無と言って良く、呪術的要素ばかりに満ち溢れている。
これは、完全に、仏教の世界の中に誕生した、バラモン教である。
さらに法華経を難解にさせているのは、法華経、それ自体の中に「法華経を信仰する功徳」が説かれている。
それでいて、法華経そのものの思想的内容自体が明確ではない。
ゆえに、数多くの知識人達に、法華経は「自画自賛ばかりで中身の無い経典」と批判されて来た。

だが、それでも法華経を信仰する者がいるのはなぜか?
それも、バラモン教とは縁もゆかりもない、日本で?

それは、法華経、そのものが「呪文」なのである。
法華経二十八品、全体が呪文なのだ。
呪文、つまり、真言である。

だから、法華経を読誦したり、書写したりすると、功徳があると言われて来たのだ。

知識人は論理で考えるので、法華経どころか大乗仏教全体、ましてや密教など、わけがわからんだろう。
だが、素朴な民衆は、逆に理屈など、どうでも良い。
ご利益があると言われたら、すがるのだ。
だから、意味がわからなくても

「じーがーとくぶつらい、しょーきょうしょーこっしゅー」と朝晩、唱えて来たのだ。

法華経は、ありとあらゆる諸仏菩薩諸神を差別なく、賛嘆する経典であり、それゆえに、法華経読誦する者には功徳があるとされ、それなりに何か得るところがあるから、今日まで伝わっているのである。

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