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空とは何か?

「空」とは、大乗仏教に至って、登場した概念である。
釈迦は、無常、無我という真理を見出した。
なぜ、見出し得たのか?
それは、あるがままに、この世を観察したからである。
(実際は、無常も無我も、釈迦以前から存在しているのだが)

あるがままに世の中を観察すると、真理が見えて来る。
あるがままに観る。
これを「空」という。

空には、自分の邪推、というものが入らない。
不自然な思考をしない。
あくまでも、自然に、論理的に結論が出て来る。

悟りとは、常に「空」でいられる事だ。
仏陀とは、常に「空」なのだ。
我々は、時々しか、「空」になれない。
大乗仏教初期に、一連の般若経典が成立した。
これらの経典の中で、「空」が主張されている。
どうしたら「空」になれるか?

この大乗仏教の思想の中における、諸仏菩薩諸天神の最大の役割は、人々を「空」へと導く事である。
現世利益は、彼らの主たる目的ではない。
それどころか、人を「空」という悟りの境地へと導くために、あえて難題を容易する事さえあろう。
これは人の願う、現世利益とはむしろ逆である。

悠々自適に暮らしていれば、人は悩まない。
悩まないと、魂は成長しないのだ。
これは、人を悟りへと導こうとする神仏から見ても、好ましい事とは言えない。

もし、今、苦しい状態に自分が置かれているならば、それは魂を向上させるための、良い機会なのかも知れない。
そう理解した時に、意外に、今の状況は好転して行くのではないか?

例えば、病気で苦しんでいる人が、「病気というのはこんなに苦しいものかと、気づかせていただいた」と理解すれば、もう、病気という課題は修了する。
(実際は、病気はそんなに単純では無いが、一例としてあげた)

人が生きて行く上で、最も重要なのは知恵だ。

この世で、本当に悲しい人は、知能的障害を負った人である。
思考が正常に機能しない事ほど、どうしようも無いものはない。

もし、自分に知能的な問題があれば、それほど、神仏の導きにすがっていただきたい。

一往、健常者である我々も、思考が正常ではない時が多い。
政治家や公務員など、狂っていると感じないか?

この世の争いに打ち勝つには、思考が武器である。
いかに論理的に考えるか?
現代の武器は、剣や銃ではなく、優れた論理に基づく言動、行動である。
相手以上に、するどい論理性を発揮し、対策を練る事だ。
つまり、「空」を習得するのだ。

「空」、つまり、「あるがまま」の思想とは、「極に走らない」という事である。
極端思考をしない。
中道を探る。

丸でなく、四角でなく、黒でもなく、白でもなく・・・

このような思考を仏教では採用する。
仏典によく「非A非B」(AにあらずBにあらず)とあるのは、中道というものだ。
これを「中観思想」とも言う。
とは言え、わざわざ竜樹の中論を読む必要はない。
読んでも、意味、わかんない。
こういう思考パターンは、日々、意識する事により習得できる。

とにかく、極端な考え方を避ける事。
そして、無理な発想をしない事。

般若心経を読誦し、神仏の力を借りながら、日々、論理的な思考に磨きをかけて行こう。

浄土思想はなぜ生まれたか?

日蓮は「念仏無間地獄」と言って、浄土思想を主張した。
(と言いつつ、晩年、日蓮は「寂光土思想」という、同様のものを主張したのであるが)
日蓮の浄土思想には、教理的な矛盾があるものの、それがすべて的外れなわけではない。

この世(娑婆世界)は苦悩の世界と割り切り、死後の極楽往生を願うという思想は、自殺につながりやすい。
「南無阿弥陀仏」と称えながら川に身を投げる、などという行為が生じやすかった。
ゆえに、地獄を生みだす要因を、浄土思想の中にはらんでいるのである。
しかしながら、冷静に考えてみるならば、浄土思想が生まれて当然の理由もある。
仏教では、輪廻を主張する。
生まれ変わり、死に変わりを何度も繰り返すうちに、人は数々のカルマ(業)を身につけて行く。
このカルマを消滅する(解脱する)事によって、再び輪廻しなくても良い存在となる。
これを成仏、という。

だが、何百回、何千回と、数え切れぬ間に、人(動物に生まれた時代もあったろう)は無数の罪をおかして来た。
それを、この世で、いくばくかの仏道修行を積んだとして、果たして消せるものだろうか?
無数の、重い、重い罪を積んで来た我々は、やはり、今後も何度も何度も生まれ変わりながら、長い、長い修業を積まねば、成仏する事など不可能ではないか?というのが自然の発想だろう。

例えば、殺人行為をした人間が、被害者家族の家の前を、一年間、掃除したところで、その罪は許されまい。
それこそ、一生、掃除を続けても、許されるかどうか、という罪の重さなのだ。

それなのに、六波羅蜜の修業を、今世で数十年、続ければ成仏できる、なんて、虫が良すぎるのではないか?
ましてや、現世利益を願うなど、罪人がぜいたくな暮らしを願うようなものではないか?
我々は、過去世からの罪業が深く、どれほどの不幸を味わっても当然の身の上である。
だから、不幸を甘んじて受け容れ、せめて、死後、浄土に生まれ変わり、やすらぎを得るというのが、せいぜい我々の願える限界ではないか?
というのが浄土思想なのである。

密教では即身成仏を説く。
これは、特定の行法を行えば、この世のうちに成仏する、という発想だ。
日蓮の唱題行もまた、密教の即身成仏の行という位置づけが出来る。
密教的思考から行けば、浄土思想は、あまりにも悲しすぎる。
しかし、南無妙法蓮華経と、朝晩、唱えてさえいれば、本当に、過去永遠の罪を許されるのだろうか?
そんなに、我々のカルマは軽いのか?

ガンジーは、ヒンドゥー過激派のテロによって死んだが、あのような悲劇的な死に方で、いっきにカルマを清算すれば、即身成仏もあるかも知れないが、のんきに日々をくらし、それでいて、即身成仏など、無茶なのかも知れない。
カルマ論を前提とする以上、このように考えたほうが、合理的じゃなかろうか?

浄土思想も、そんなところから生じたのだな、たぶん。
浄土信仰者、つまり、浄土宗とか浄土真宗の信者であるが、彼らの思想は、現世利益をあまり願わない。
それは、上記に述べたように、罪業の深い人間が現世利益を願うなど、おこがましいという発想なのだ。
どんな悲惨な死に方をしても、文句を言えぬほど、我々は、過去世において、罪深い事をして来たから、という発想だ。

だから、まったく現世利益を否定するわけではないが、比較的浄土系の人は、現世利益思考を好まない。
で、何を目的とするかと言えば、無論、死後の往生が最終目標。
そして、今世においては、現世利益よりも、精神的幸福を望む。

幸福には、物質的幸福と、精神的幸福があるが、浄土系の人は、精神的幸福を優先する。
どのような環境にあっても、精神的幸福を求めるのは可能、という発想である。
では、具体的に、どういう思想を彼らは持っているかと言えば、「無常観」だろうと思う。

日本文学の中にも、無常観が潜んでおり、これは浄土思想と無縁ではない。
物事は必ず、変化する。
形あるものは、いつか滅びる。
すべてのものは、いつか自分のもとを離れる。
そう考えていれば、苦悩は少なくて済む。
反対に、今、与えられているものに対し、感謝する事が出来る。
死後の往生にこだわれば、日蓮の危惧したように、自殺に結びつくが、浄土思想の、この世への割り切り方は、かなり生き方の参考になるのではないかと思われる。
昨年、東日本大震災があり、多くの全員が一瞬で亡くなった。
このような情景を見れば、「神も仏もあるものか」という疑念が起こるのが普通である。
だが、浄土思想に基づいて考えるならば、その疑念自体が無茶であると感じる。

医者でも、救える命と救えぬ命がある。
神仏にも、救える場合と、救えぬ場合がある。
それは、その人の抱えている「運命」があるし、また、そうでなくとも、地殻変動という強烈な自然現象をどうにか出来るほど、神仏には力は無いのだ。

だが、なんとか助けてあげたいと、神仏は常に念じているのである。
だから、例え、願ったような状況にならなくても、助けてくれようとした神仏には、感謝をすべきなのだ。
それは、命を救えなくても、救うべく努力してくれた医者に、頭を下げるように。

法華経という経典

法華経二十八品を通読すると、「ワケがわからん」という感想を持つのが普通であろう。
結局、色んなものを寄せ集めた経典であるから、それが普通なのである。
法華経の中では寿量品が最も有名であるが、この寿量品は久遠仏の存在を説いている。
歴史上の釈迦を超えた、永遠に法を説き続ける仏である。

例えば、人間には太陽信仰というものがある。
「お天道さま、ありがたや」という、素朴な宗教である。
だが、宇宙において、太陽とは数多くの恒星の一つに過ぎない。

では、数多くの恒星を生み出したものは何か?
それは宇宙に潜む、エネルギーである。

寿量品に置き換えると、太陽に相当するのが歴上の釈迦であり、宇宙に潜むエネルギーに相当するのが、久遠仏である。
法華経には、寿量品のほかにも、脱宗派主義を主張する方便品、観音信仰を説く観世音菩薩普門品(通称、観音経)等、合計して二十八の経典が集合して形成されている。

この二十八の経典はすべて、別個に成立したものと捉えるのが自然であり、無理に、整合性を求めようとすると混乱するだろう。
法華経には、一往、体裁として物語的整合性を作ろうという努力はうかがえるが、完成しているわけではない。
多民族の集合体である、アメリカ合衆国のような経典なのだ。
では、なぜ法華経は尊重されて来たか?
それは、法華経こそが、バラモン教と仏教を完全に結びつけたものだったからだ。

久遠仏とは、まさに、バラモン教の根本神である「ブラフマン」そのものであり、観世音菩薩は、おそらくはバラモン教の女神「サラスヴァティー」のコピーであり、陀羅尼品においては、バラモン聖典「バガヴァッド・ギーター」に登場する神が勢ぞろいする。

法華経以前の仏教は、バラモン教とは一線を隔す部分があった。
ところが、それでは大衆の関心を引き寄せる事が不可能である。
そのため、仏教とバラモン教を結合する必要があった。
その要請から生まれたのが法華経だったのだ。
法華経の中には、「無常」や「無我」という仏教の根本思想は、もはや説かれていない。
法華経は、仏教的法門は皆無と言って良く、呪術的要素ばかりに満ち溢れている。
これは、完全に、仏教の世界の中に誕生した、バラモン教である。
さらに法華経を難解にさせているのは、法華経、それ自体の中に「法華経を信仰する功徳」が説かれている。
それでいて、法華経そのものの思想的内容自体が明確ではない。
ゆえに、数多くの知識人達に、法華経は「自画自賛ばかりで中身の無い経典」と批判されて来た。

だが、それでも法華経を信仰する者がいるのはなぜか?
それも、バラモン教とは縁もゆかりもない、日本で?

それは、法華経、そのものが「呪文」なのである。
法華経二十八品、全体が呪文なのだ。
呪文、つまり、真言である。

だから、法華経を読誦したり、書写したりすると、功徳があると言われて来たのだ。

知識人は論理で考えるので、法華経どころか大乗仏教全体、ましてや密教など、わけがわからんだろう。
だが、素朴な民衆は、逆に理屈など、どうでも良い。
ご利益があると言われたら、すがるのだ。
だから、意味がわからなくても

「じーがーとくぶつらい、しょーきょうしょーこっしゅー」と朝晩、唱えて来たのだ。

法華経は、ありとあらゆる諸仏菩薩諸神を差別なく、賛嘆する経典であり、それゆえに、法華経読誦する者には功徳があるとされ、それなりに何か得るところがあるから、今日まで伝わっているのである。

金光明経について

国王がブッダの教えに基づき、正しく政治を行うならば、弁財天等の諸神が国を守護するという内容の経典。

反対に、国王が政治を誤れば、諸神は怒って、守護を辞める。

若干、主旨は異なるが、日蓮の「神天上の法門」は、この金光明経に由来する。

サンスクリットが存在する為、中国で作成された、いわゆる「偽経」ではない。

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