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俺は親鸞が嫌い

親鸞は自身を半僧半俗としている。
これは事実としてそうだった。
師である法然は、排他的な浄土法門を説いたがゆえに、幕府によって罪人とされた。
この時、僧籍は失われており、弟子の親鸞もまた、同様だった。

だから、身分としては僧ではないが、僧のような仕事をするから、「半僧半俗」を称したわけだ。
親鸞の法門は「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の言葉に尽きる。
「善人が往生するのは当然である。仏は、出来の悪い者ほど哀れみ、お救い下さるのだから、善人が往生する以上、悪人が往生しない事など、決してない」という意味である。

この言葉に見えるように、親鸞には「悪」への寛容性がある。
そもそも、この「悪」への寛容性は、師、法然の説いた浄土宗の法門の理念である。
浄土宗の理念とは、「この世は環境が悪すぎて、従来の宗派(天台や華厳等)の説く修業をおさめる事は出来ない。ならば、ただ阿弥陀如来に救いを求め、来世、極楽浄土に生まれ変わり、極楽浄土で修業をしよう」というものである。
要するに、仏道修業の放棄である。
法然の存在した時代の日本仏教は、真言宗、天台宗、華厳宗、法相宗がメインだが、どれも教義が難しく、修業は複雑で、庶民の手に届くものではなかった。
当時は「出家しないと成仏は出来ない」という常識もあったので、庶民の手に届かせる必要すらなかった。

それに対し、違和感を抱いたのが法然。
法然は仏教を庶民に近づけようとした。
そこで、中国で広まっていた、易行道(修業の簡単な仏道)である浄土教を日本でも布教したのである。

浄土教は、「煩悩は自己解決できない」という考え方である。
従来の宗教は、煩悩を自己解決しようと、四苦八苦する。
だが、浄土教はそれを放棄する。

密教もまた、煩悩の自己解決を放棄し、諸仏に対し、煩悩を悟りへと転じてくださるように祈願する。
だが、浄土教は、こうした祈願すら行わない。
煩悩そのまんま。
垂れ流しっぱなし。
戒律すらない。

法然を宗祖とする浄土宗では、それじゃ、さすがにまずいという事で、後に戒律を説くようになったが、浄土真宗は、現在も戒律は無い。
「人だから煩悩があるのは仕方ない」という考え方だ。

この考え方は、かなり現実的である。
密教は「煩悩即菩提」を説くが、実際、多くの密教は煩悩を悟りに転ずるどころか、煩悩を肥大化させて来た。
そういうものを目の当たりにして来た、法然やその弟子が、密教を否定するのはやむを得ない。

俺は、多くの密教僧が理想とは裏腹に堕落して行ったのは、法門の問題ではなく、真剣さの欠如であると思う。
実際、マジメに修業を遂げる者もあるわけだから。
また、組織は必ず腐敗するものだ。

煩悩即菩提を説く密教の名刹が、四度加行(密教の坊さんが最初にやらないとダメな修業)という過酷な行が終わった後で、お祝いと称して風俗に行く。
今だって、そんなものである。

こういうのは、密教が有効とか無効という問題ではなく、真剣さの問題と思うが、いかがか?
だが、いかに真剣に取り組んだとしても、人間である以上、煩悩が消滅するわけでは無い事は確かである。
だから、法然は浄土宗を広めた。
親鸞もまた従った。

煩悩や、煩悩によってもたらす犯罪に対する寛容性というのは、魅力があると思う。
だから、死刑執行の時、浄土真宗の坊さんが立会い、死刑執行の部屋には、浄土真宗の阿弥陀如来が安置してある。

「まじめに生きたいのに、生きられなかった」という人に対し、浄土真宗の説く教えは甘美である。
俺もまた、浄土真宗の思想には、一種、仏教が到達したものを感ずる。
だが、どうしても、受け入れられない所がある。
偏狭な教理は、まあいい。
宗教はそんなものだ。
だが、俺が徹底的に嫌なのは、親鸞が妻帯した事だ。
親鸞はある日、お堂にこもった。
お堂の中で、観世音菩薩に対し、「私は煩悩を捨てる事が出来ません。どうしたら良いでしょうか?」と問いかけ続けたらしい。
すると、夜中に夢の中に観世音菩薩が現れた。
「そんなに女性が恋しいのならば、私が女人となり、あなたの妻となりましょう」と。
この観世音菩薩の夢の中での承諾を持って、親鸞は妻帯し、子を儲けた。

フザケンナ!

だいたい、夢の中の話じゃねーか。
作り話の可能性もある。
要するに、単に結婚したかっただけじゃねーか。

「俺は結婚したかったから、結婚したんだが、で、それが何?」

という開き直りをしたほうが、まだ好感を持てる。
なのに、こういうホラ話を吹聴し、自分が「半僧半俗」と言いつつ、坊さんの仕事をし、お布施で飯を食い、しかも、そのお布施で妻子を養いしてる親鸞は、詐欺にしか思えない。

凡夫に寛容である浄土の教えを説きつつも、自分は厳しく僧侶として自戒し続けた法然のほうが、何倍も人として尊敬できる。
親鸞って、プロテスタントの牧師に似てない?
プロテスタントは、ローマカトリックに敵対したルターが起したキリスト教の宗派だが、プロテスタントでは司祭を置かない。
司祭ってのは、仏教で言う「僧侶」の事。
こういう権威をプロテスタントは認めない。
なぜならば、神のもとにはみな、平等だから。
神父(=司祭)さんを通してしか、救われないというカトリックに対し、ルターは反発した。

以降、プロテスタント教会には神父はいない。
そのかわり、信者の世話人としての「牧師」を置くようになる。
だが、結局、牧師もいつの間にか聖職者化し、神父同様に人の頭の上から説教するようになる。

そして、牧師もまた、家庭を持ち、子どもを塾に行かせ、予備校に行かせ、大学に行かせる。
休日には自家用車で家族とドライブ。
ふざけんな、バカ。

これじゃあ、生涯、独身を貫くカトリックの神父のほうが、マシに思える。奴らはたま~に、淫行事件とか起すけどな。
僧侶が家庭を持たないのは、家族がいたら、家族が気にかかる。
妻の面倒を見ないとならない。
子どもの面倒を見ないとならない。
それは精神的な面のみならず、財政においても。
つまり、妻子を食わせねばならない。

自分一人の生活ならば、信者にめんどうを見てもらっても、たいした事はない。
だが、妻子がいたら、信者の負担は、二倍にも三倍にもなる。

それに、妻子があれば、孤独な人の気持ちが理解できなくなる。
家で妻子が待っている人が、孤独な人の相談に乗る。
これはどうしても偽善になってしまう。

俺の尊敬できる僧侶の一人が、江戸時代の良寛さん。
この人は、寺院を持たず、あばら屋で、生涯、過ごした。
僧侶の見本である。

 
というわけで、浄土真宗。
浄土真宗って、いま、数多くの派に分かれているが、みな、トップは親鸞の血統である。
浄土真宗の宗祖は、代々、親鸞系。
世襲なのだ。

これって何?
徳川家?

血を絶えさせちゃならんから、当然、やるわね。
やる事、やるわね。
ガンガン、やるわね。

もはや、「煩悩抑えきれずして、やむにやまれず」って感じじゃなくて、積極的に煩悩、フル回転。

こうなるともう、絶対、信頼できない。
俺は、別に坊さん、妻帯してもいいと思う。
それを「恥」と思ってくだされば。
「自分は僧侶である」と名乗らなければ。
寺院の管理人と、葬儀屋に徹していただければ。

でも、信者から多くのお布施を要求し、それで家族を養い、ぜいたくな暮らしをし、大きな顔をしている坊主には、嫌悪感しか沸かぬ。

俺とは法門が異なるが、スリランカ、タイ、ビルマの坊さんのほうが、まともだ。
俺が嫌なのは、親鸞の小細工したような言い訳。
「半僧反俗」とか言わないで、「私は単に俗人。在家です。」と言って、維摩居士のように生きれば良かったのだ。
堂々と、自分の稼ぎで飯を食い、妻子を養い、その上で、在家の在家のための在家による教えを説けば良かったのだ。

欲望というのは抑え難い。
だが、だからと言って、欲望を肯定したり、理屈をこねて正当化しようとするんじゃなくて、欲望と戦いつつ、時に欲望に負けても、それを正当化しないで、恥じていればいい。
それが僧侶のあり方じゃないのか?

釈迦の極端に禁欲的で、しかもそれを弟子にまで要求するあり方は、不可解としか言い様が無いが、それでも、「欲望との戦い」こそが、宗教の眼目である事は間違いない。

なぜならば、世の中の、あらゆる犯罪は「欲望」が暴走する事によって、引き起こされるからだ。

だからこそ、欲望をコントロールするために、人は出家する。
それは仏教に限らず、カトリックでも同じだ。

そして、そういう出家者の、自身の欲望と戦う生き様を見て、在家信者も、身を正すのである。
日本が道徳的の衰退した理由の一つには、こうした「模範」となる人物がいなくなった事もあるだろう。

良寛さんのような人がもし、身近かにいたら、もし、親がヒドイ人物でも、心が捻じ曲がる事は無いだろう。

粗末なあばら屋で、一人、祈りを捧げる出家者がもし近所にいて、そういう人との交流があったら、人は生きる道を踏み外す事はない。

こうした人が一人もいなくなる。
これが「末法」という事なのだろう。

 

ちなみに、浄土真宗の方々は北海道開拓に大いに貢献した。
道内を走る国道は、門徒の手によるところが大きい。
是々非々で、この点については、大いに感謝したい。
また、純粋に真宗を信仰する人を、バカにするつもりは毛頭ない。
俺の親族にも、真宗の剛信者が多く、みな、善良で長生きだ。

ただ、真宗のみならず、日本の仏教界、宗教界、全体として大いに反省すべきものがあると思い、この記事を書いた。

心打たれたおみくじの言葉

神社のおみくじにあった言葉です。

 
なにごとにも心動かず常業を守ってゆくときは、おもいがけぬ幸いをうることあり。いろいろと迷うときは人にたぶらかされて身のおき所にも苦しみます。

 
《神の教》

なやむ思いを祈りにかえて、すがれひとすじ神様に

病(やまい)にかかって、病を苦にすれば、病はますます悪くなる。医療を施した上は、其(その)平癒を神様に御願いするがよい。病気ばかりではない。人力を尽くした上は何事も思いなやまず、神様に御祈りする。なやむ苦悩を祈願にかえる、なやむ隙(ひま)に御祈りする。

欲望のコントロール

欲望をどう制御するか?
仏教は、この問題にひたすら取り組んで来た。

小乗仏教は、「欲望は努力でコントロールできる」という信念の元、修業に励んだ。
だが、釈迦在世の頃から、それが上手く行かなかった事は、「律蔵」という経典より、察する事が出来る。
とにかく、釈迦の弟子の中には、欲望、特に性欲の制御が出来ずに、しくじった者が多い。

釈迦は、こうした者達を、叱責したり、あるいは教団を追放したそうだが、そもそも、「欲望は努力でコントロールできる」という考え方に無理があったのではないか?

釈迦は中道論者と言われているが、色欲については中道ではない。
完全なる禁欲主義者である。
そして、あまり知られていないが、彼は出家主義者。
出家しない限り、人は救われないとする。

だが、釈迦のような出家者は、在家者の援助があって、生活できる。
ならば、「出家主義」そのものに矛盾がある。
(カトリックも釈迦教団に似た出家主義である)

結局、本当に救われるのは出家者だけで、在家は、出家者を供養する事で、功徳のおこぼれが貰える、という考え方なのだ。
釈迦は、最初は教団に女性を入れない方針だった。
だが、弟子の強い要望で、女性もしぶしぶ、入れるようになった。
そこから、さまざまな惨劇が始まったようだ。

だが、女性を入れたのが失敗とは言えない。
だいたい、むさい、男だけの集団、というのに無理がある。
精神的にがまん出来ないというのが普通だ。
がまんできる釈迦というのは、ホモか、ひそかに女を囲っていたか、どっちかだと思う。

高野山は女人禁制と言われた山なのに、今や、坊さんたちが、結婚し、高野山の中で生活している。
これを「仕方無い」というか、「堕落」というかは、人それぞれの解釈だろう。
俺には、両方の要素があると思う。
ちなみに、高野山は小乗ではなく、「密教」である。
次に大乗仏教。
これは、「欲望は努力ではコントロールできない」という立場だ。
じゃあ、どうすればいいのか?
コントロール不要なのか?
そうではない。
コントロールは必要だが、努力ではそれは実現できない。

欲望のコントロールは、諸仏菩薩の霊的な導きによって、実現できる、という思想である。
だから、もともと異宗教であった、ヒンドゥー教やゾロアスター教などの神を、仏教に取り込み、拝んだ。
(「内外相対」という教判があるが、この時点で意味をなさない)

諸仏菩薩を一生懸命に拝めば、欲望はコントロールできるのか?
こればかりは、やってみなければわからない。
ただ、やらない人よりは、やっている人のほうが、コントロールできているように、俺は思う。
大乗を一歩、進めると密教になる。

密教は、神仏と一体化する事で奇跡を起こす、というものだが、そもそも、この考え方は大乗仏教の中にすでにあって、それを「雑密」と言われている。

では、なぜ、改めて密教が誕生したのかと言えば、「神仏と一体化する事で奇跡を起こす」という事を「教理化」したのである。

俺は、この「教理化」が今ひとつ、好きになれない。
どうでもいい理屈を並べて、何になるというのだ。

ヒンドゥー教にも、色々理屈がある。
例えば、ヨーガに関するものでも、書店に行けば、分厚い本をいくらでも発見できるだろう。
そこには、チャクラがどうのこうのと、理屈が並べ立ててある。

かつて、こういう屁理屈で、人類は救われた試しはない。

人は実践、実行のみによって救われる。

密教全般、否定するわけではないが、密教経典を読んでも、まったく俺は関心を持てない。
法華経のように、根拠なく「信じれば救われます」と書かれているほうが、スッキリとする。
密教における欲望のコントロール方法は、自力と他力の合わさったものである。
「小乗+大乗=密教」というのが、これに関しては言える。

だが、難しい事を考えているうちに、彼らは、どうでも良くなってしまったのか、ついに、「欲望のコントロール」を放棄する。

そして、「欲望こそ悟り」として、快楽主義に突っ走る。
これが左道密教である。

後世修正されて行くが、この左道密教こそ、インドから仏教を衰滅させた要因である。

日本天台宗もまた、室町時代あたりで、左道密教的になり、真盛上人という人が改革に乗り出したりしている。
織田信長が比叡山を焼き討ちしたのは、左道密教化した天台宗を邪教と見た、というのも一つの理由である。
それで、結論だ。

やはり、密教がウダウダ理屈をこね回すあたりで、おかしくなったのだ。

大乗仏教のように、素直に神仏に救いを求めているほうが、欲望の制御には効果はあったろう。

手を静かに合わせて、神仏に願う。
ここに大乗の説く救いがある。

ヴィッパッサナー瞑想という、小乗瞑想を説く人々が日本にもいるが、理屈をこね回すだけで、効果があるとは思えない。
「お前は、きっちり実践した経験が無いから、わからないのだ」、と言われるかも知れないが、あのクドクドした理屈を聞くだけで、救いを感じられない。

小乗仏教の聖地、東南アジアの人々が、欲望のコントロールに成功しているとも思えない。

じゃあ、大乗仏教の聖地、日本はどうなの?
すまぬ。
日本人は、あまり大乗仏教信じて無いんだ。
どっちかと言えば、聖地というより、性地というのが的確だ。
上記、色々述べた事について、異論があり、「こうすれば欲望はコントロールできる」という自信のある方は、ぜひとも、それを世に広め、この国、世界を導いていただきたいと思う。

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