欲望のコントロール

欲望をどう制御するか?
仏教は、この問題にひたすら取り組んで来た。

小乗仏教は、「欲望は努力でコントロールできる」という信念の元、修業に励んだ。
だが、釈迦在世の頃から、それが上手く行かなかった事は、「律蔵」という経典より、察する事が出来る。
とにかく、釈迦の弟子の中には、欲望、特に性欲の制御が出来ずに、しくじった者が多い。

釈迦は、こうした者達を、叱責したり、あるいは教団を追放したそうだが、そもそも、「欲望は努力でコントロールできる」という考え方に無理があったのではないか?

釈迦は中道論者と言われているが、色欲については中道ではない。
完全なる禁欲主義者である。
そして、あまり知られていないが、彼は出家主義者。
出家しない限り、人は救われないとする。

だが、釈迦のような出家者は、在家者の援助があって、生活できる。
ならば、「出家主義」そのものに矛盾がある。
(カトリックも釈迦教団に似た出家主義である)

結局、本当に救われるのは出家者だけで、在家は、出家者を供養する事で、功徳のおこぼれが貰える、という考え方なのだ。
釈迦は、最初は教団に女性を入れない方針だった。
だが、弟子の強い要望で、女性もしぶしぶ、入れるようになった。
そこから、さまざまな惨劇が始まったようだ。

だが、女性を入れたのが失敗とは言えない。
だいたい、むさい、男だけの集団、というのに無理がある。
精神的にがまん出来ないというのが普通だ。
がまんできる釈迦というのは、ホモか、ひそかに女を囲っていたか、どっちかだと思う。

高野山は女人禁制と言われた山なのに、今や、坊さんたちが、結婚し、高野山の中で生活している。
これを「仕方無い」というか、「堕落」というかは、人それぞれの解釈だろう。
俺には、両方の要素があると思う。
ちなみに、高野山は小乗ではなく、「密教」である。
次に大乗仏教。
これは、「欲望は努力ではコントロールできない」という立場だ。
じゃあ、どうすればいいのか?
コントロール不要なのか?
そうではない。
コントロールは必要だが、努力ではそれは実現できない。

欲望のコントロールは、諸仏菩薩の霊的な導きによって、実現できる、という思想である。
だから、もともと異宗教であった、ヒンドゥー教やゾロアスター教などの神を、仏教に取り込み、拝んだ。
(「内外相対」という教判があるが、この時点で意味をなさない)

諸仏菩薩を一生懸命に拝めば、欲望はコントロールできるのか?
こればかりは、やってみなければわからない。
ただ、やらない人よりは、やっている人のほうが、コントロールできているように、俺は思う。
大乗を一歩、進めると密教になる。

密教は、神仏と一体化する事で奇跡を起こす、というものだが、そもそも、この考え方は大乗仏教の中にすでにあって、それを「雑密」と言われている。

では、なぜ、改めて密教が誕生したのかと言えば、「神仏と一体化する事で奇跡を起こす」という事を「教理化」したのである。

俺は、この「教理化」が今ひとつ、好きになれない。
どうでもいい理屈を並べて、何になるというのだ。

ヒンドゥー教にも、色々理屈がある。
例えば、ヨーガに関するものでも、書店に行けば、分厚い本をいくらでも発見できるだろう。
そこには、チャクラがどうのこうのと、理屈が並べ立ててある。

かつて、こういう屁理屈で、人類は救われた試しはない。

人は実践、実行のみによって救われる。

密教全般、否定するわけではないが、密教経典を読んでも、まったく俺は関心を持てない。
法華経のように、根拠なく「信じれば救われます」と書かれているほうが、スッキリとする。
密教における欲望のコントロール方法は、自力と他力の合わさったものである。
「小乗+大乗=密教」というのが、これに関しては言える。

だが、難しい事を考えているうちに、彼らは、どうでも良くなってしまったのか、ついに、「欲望のコントロール」を放棄する。

そして、「欲望こそ悟り」として、快楽主義に突っ走る。
これが左道密教である。

後世修正されて行くが、この左道密教こそ、インドから仏教を衰滅させた要因である。

日本天台宗もまた、室町時代あたりで、左道密教的になり、真盛上人という人が改革に乗り出したりしている。
織田信長が比叡山を焼き討ちしたのは、左道密教化した天台宗を邪教と見た、というのも一つの理由である。
それで、結論だ。

やはり、密教がウダウダ理屈をこね回すあたりで、おかしくなったのだ。

大乗仏教のように、素直に神仏に救いを求めているほうが、欲望の制御には効果はあったろう。

手を静かに合わせて、神仏に願う。
ここに大乗の説く救いがある。

ヴィッパッサナー瞑想という、小乗瞑想を説く人々が日本にもいるが、理屈をこね回すだけで、効果があるとは思えない。
「お前は、きっちり実践した経験が無いから、わからないのだ」、と言われるかも知れないが、あのクドクドした理屈を聞くだけで、救いを感じられない。

小乗仏教の聖地、東南アジアの人々が、欲望のコントロールに成功しているとも思えない。

じゃあ、大乗仏教の聖地、日本はどうなの?
すまぬ。
日本人は、あまり大乗仏教信じて無いんだ。
どっちかと言えば、聖地というより、性地というのが的確だ。
上記、色々述べた事について、異論があり、「こうすれば欲望はコントロールできる」という自信のある方は、ぜひとも、それを世に広め、この国、世界を導いていただきたいと思う。

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