法華経という経典

法華経二十八品を通読すると、「ワケがわからん」という感想を持つのが普通であろう。
結局、色んなものを寄せ集めた経典であるから、それが普通なのである。
法華経の中では寿量品が最も有名であるが、この寿量品は久遠仏の存在を説いている。
歴史上の釈迦を超えた、永遠に法を説き続ける仏である。

例えば、人間には太陽信仰というものがある。
「お天道さま、ありがたや」という、素朴な宗教である。
だが、宇宙において、太陽とは数多くの恒星の一つに過ぎない。

では、数多くの恒星を生み出したものは何か?
それは宇宙に潜む、エネルギーである。

寿量品に置き換えると、太陽に相当するのが歴上の釈迦であり、宇宙に潜むエネルギーに相当するのが、久遠仏である。
法華経には、寿量品のほかにも、脱宗派主義を主張する方便品、観音信仰を説く観世音菩薩普門品(通称、観音経)等、合計して二十八の経典が集合して形成されている。

この二十八の経典はすべて、別個に成立したものと捉えるのが自然であり、無理に、整合性を求めようとすると混乱するだろう。
法華経には、一往、体裁として物語的整合性を作ろうという努力はうかがえるが、完成しているわけではない。
多民族の集合体である、アメリカ合衆国のような経典なのだ。
では、なぜ法華経は尊重されて来たか?
それは、法華経こそが、バラモン教と仏教を完全に結びつけたものだったからだ。

久遠仏とは、まさに、バラモン教の根本神である「ブラフマン」そのものであり、観世音菩薩は、おそらくはバラモン教の女神「サラスヴァティー」のコピーであり、陀羅尼品においては、バラモン聖典「バガヴァッド・ギーター」に登場する神が勢ぞろいする。

法華経以前の仏教は、バラモン教とは一線を隔す部分があった。
ところが、それでは大衆の関心を引き寄せる事が不可能である。
そのため、仏教とバラモン教を結合する必要があった。
その要請から生まれたのが法華経だったのだ。
法華経の中には、「無常」や「無我」という仏教の根本思想は、もはや説かれていない。
法華経は、仏教的法門は皆無と言って良く、呪術的要素ばかりに満ち溢れている。
これは、完全に、仏教の世界の中に誕生した、バラモン教である。
さらに法華経を難解にさせているのは、法華経、それ自体の中に「法華経を信仰する功徳」が説かれている。
それでいて、法華経そのものの思想的内容自体が明確ではない。
ゆえに、数多くの知識人達に、法華経は「自画自賛ばかりで中身の無い経典」と批判されて来た。

だが、それでも法華経を信仰する者がいるのはなぜか?
それも、バラモン教とは縁もゆかりもない、日本で?

それは、法華経、そのものが「呪文」なのである。
法華経二十八品、全体が呪文なのだ。
呪文、つまり、真言である。

だから、法華経を読誦したり、書写したりすると、功徳があると言われて来たのだ。

知識人は論理で考えるので、法華経どころか大乗仏教全体、ましてや密教など、わけがわからんだろう。
だが、素朴な民衆は、逆に理屈など、どうでも良い。
ご利益があると言われたら、すがるのだ。
だから、意味がわからなくても

「じーがーとくぶつらい、しょーきょうしょーこっしゅー」と朝晩、唱えて来たのだ。

法華経は、ありとあらゆる諸仏菩薩諸神を差別なく、賛嘆する経典であり、それゆえに、法華経読誦する者には功徳があるとされ、それなりに何か得るところがあるから、今日まで伝わっているのである。

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