浄土思想はなぜ生まれたか?

日蓮は「念仏無間地獄」と言って、浄土思想を主張した。
(と言いつつ、晩年、日蓮は「寂光土思想」という、同様のものを主張したのであるが)
日蓮の浄土思想には、教理的な矛盾があるものの、それがすべて的外れなわけではない。

この世(娑婆世界)は苦悩の世界と割り切り、死後の極楽往生を願うという思想は、自殺につながりやすい。
「南無阿弥陀仏」と称えながら川に身を投げる、などという行為が生じやすかった。
ゆえに、地獄を生みだす要因を、浄土思想の中にはらんでいるのである。
しかしながら、冷静に考えてみるならば、浄土思想が生まれて当然の理由もある。
仏教では、輪廻を主張する。
生まれ変わり、死に変わりを何度も繰り返すうちに、人は数々のカルマ(業)を身につけて行く。
このカルマを消滅する(解脱する)事によって、再び輪廻しなくても良い存在となる。
これを成仏、という。

だが、何百回、何千回と、数え切れぬ間に、人(動物に生まれた時代もあったろう)は無数の罪をおかして来た。
それを、この世で、いくばくかの仏道修行を積んだとして、果たして消せるものだろうか?
無数の、重い、重い罪を積んで来た我々は、やはり、今後も何度も何度も生まれ変わりながら、長い、長い修業を積まねば、成仏する事など不可能ではないか?というのが自然の発想だろう。

例えば、殺人行為をした人間が、被害者家族の家の前を、一年間、掃除したところで、その罪は許されまい。
それこそ、一生、掃除を続けても、許されるかどうか、という罪の重さなのだ。

それなのに、六波羅蜜の修業を、今世で数十年、続ければ成仏できる、なんて、虫が良すぎるのではないか?
ましてや、現世利益を願うなど、罪人がぜいたくな暮らしを願うようなものではないか?
我々は、過去世からの罪業が深く、どれほどの不幸を味わっても当然の身の上である。
だから、不幸を甘んじて受け容れ、せめて、死後、浄土に生まれ変わり、やすらぎを得るというのが、せいぜい我々の願える限界ではないか?
というのが浄土思想なのである。

密教では即身成仏を説く。
これは、特定の行法を行えば、この世のうちに成仏する、という発想だ。
日蓮の唱題行もまた、密教の即身成仏の行という位置づけが出来る。
密教的思考から行けば、浄土思想は、あまりにも悲しすぎる。
しかし、南無妙法蓮華経と、朝晩、唱えてさえいれば、本当に、過去永遠の罪を許されるのだろうか?
そんなに、我々のカルマは軽いのか?

ガンジーは、ヒンドゥー過激派のテロによって死んだが、あのような悲劇的な死に方で、いっきにカルマを清算すれば、即身成仏もあるかも知れないが、のんきに日々をくらし、それでいて、即身成仏など、無茶なのかも知れない。
カルマ論を前提とする以上、このように考えたほうが、合理的じゃなかろうか?

浄土思想も、そんなところから生じたのだな、たぶん。
浄土信仰者、つまり、浄土宗とか浄土真宗の信者であるが、彼らの思想は、現世利益をあまり願わない。
それは、上記に述べたように、罪業の深い人間が現世利益を願うなど、おこがましいという発想なのだ。
どんな悲惨な死に方をしても、文句を言えぬほど、我々は、過去世において、罪深い事をして来たから、という発想だ。

だから、まったく現世利益を否定するわけではないが、比較的浄土系の人は、現世利益思考を好まない。
で、何を目的とするかと言えば、無論、死後の往生が最終目標。
そして、今世においては、現世利益よりも、精神的幸福を望む。

幸福には、物質的幸福と、精神的幸福があるが、浄土系の人は、精神的幸福を優先する。
どのような環境にあっても、精神的幸福を求めるのは可能、という発想である。
では、具体的に、どういう思想を彼らは持っているかと言えば、「無常観」だろうと思う。

日本文学の中にも、無常観が潜んでおり、これは浄土思想と無縁ではない。
物事は必ず、変化する。
形あるものは、いつか滅びる。
すべてのものは、いつか自分のもとを離れる。
そう考えていれば、苦悩は少なくて済む。
反対に、今、与えられているものに対し、感謝する事が出来る。
死後の往生にこだわれば、日蓮の危惧したように、自殺に結びつくが、浄土思想の、この世への割り切り方は、かなり生き方の参考になるのではないかと思われる。
昨年、東日本大震災があり、多くの全員が一瞬で亡くなった。
このような情景を見れば、「神も仏もあるものか」という疑念が起こるのが普通である。
だが、浄土思想に基づいて考えるならば、その疑念自体が無茶であると感じる。

医者でも、救える命と救えぬ命がある。
神仏にも、救える場合と、救えぬ場合がある。
それは、その人の抱えている「運命」があるし、また、そうでなくとも、地殻変動という強烈な自然現象をどうにか出来るほど、神仏には力は無いのだ。

だが、なんとか助けてあげたいと、神仏は常に念じているのである。
だから、例え、願ったような状況にならなくても、助けてくれようとした神仏には、感謝をすべきなのだ。
それは、命を救えなくても、救うべく努力してくれた医者に、頭を下げるように。

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